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ある朝、母が顔をしかめて私に報告した。
「玖島中学校で、吹き矢でふざけていたところ、吹いた矢が、女子生徒を刺したんだって!」
吹き矢は、ドライバーの先を削って尖らせたものだったらしい。
まったく、危ない話である。
ヤフートピックスでも記事になっていたので、読んだ人もいるかと思う。
下記は毎日新聞のURL
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2005/02/22/20050222ddp041040020000c.html
「近頃は危ない」話程度で済めばよかったのだが、これには続きがあったのだ。
今日になって、その話をもう一度聞くことになるとは。
母が、古い知り合いから電話を貰った。
「もうひどい事があって・・・もう大変なの」その内容は、以下のようなものだった。
末っ子が、学校で吹き矢に当たった。
学校では消毒液をつけて、絆創膏を張っただけで、病院にも連れて行かなかったそうだ。
矢が刺さった場所は、顔であり、頬の部分だったそうだが、奥歯にあたり、矢は止まったそうだ。
突然のことで、彼女はガクガク震えながらも、自分でその矢を抜いたそうである。
あまりの恐怖でしばらく登校拒否になったのだそうだ。
その後、吹き矢を吹いた生徒からも、その親からも、学校側からも、表面ばかりの謝罪だけ。
記事に載っているほどの謝罪は、ないという。
先日、私は学校や親の責任について記述したばかりですが、、、
そもそも学校でそんな凶暴な吹き矢を野放しにしていたとは、どういうことでしょうか?
吹き矢を刺した方は大村市の三浦に住む生徒だそうです。
実名を記載して糾弾する気マンマンなのですが、どうしましょう。
女の子は精神的苦痛を受けています。
謝罪および支払いを訴えたいところです。
運よく奥歯で止まった。
いくら血がにじんだ程度、といえ、貫通しているのではないでしょうか?
傷が残る可能性だってあるのです。
あとちょっと下、もしくは上だったなら、死亡していたかもしれません。
そのことを予想して行動をとる責任能力が、十分にある年齢だと考えます。
以前、キャッチボールの球があたり心停止した事件で、十分にそのことが予測できたはずだという認定がありました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2005/02/18/20050218ddm041040120000c.html
そんなことも踏まえて。
これ以上、詳しく載せませんが、あまりにお粗末な対応だと思っています。
女子生徒の母親は「絶対に許さない」と言っています。
教育者の監督不行き届き、加害者の親の責任、それらが全くないとは言わせません。
しかるべき対応を望みます。
また、こういった場合、どうするのがよいのか、考えています。
不定期更新であり、言うまでもないが、日々変化する私的見解を発表する場であるので、非常識だ、などという意見は却下の方向で。
しかし聞く耳は持っているので、反論・ご意見はご自由にどうぞ。言論の自由はこのようにして在るべきだと私は思っている。
ただし、「その主張には一貫性がない」「昨日と言っている事が違う」等のバカげた反論はご遠慮願いたい。
究極の私的手記。
これがおそらく、このサイトの実態である。
そして、述べたいことは繰り返し、執拗に復唱するであろう。
そして、宗教・恋愛・政治・生活一般・宇宙・自然、世の中の全てに対して、嘘偽りのない私的見解を通して読み手の目に、時折々での正直な「一個人」が垣間見えたのなら、幸いである。

管理人は廈淡(カタン)。
カタンの発祥はNiftyServeのCBシミュレータ、バンドBチャンネル不確定でのハンドルネーム。
詩のフォーラム(FPOEM)ではハンドルネーム七風(ナナセ)で、暫し在籍。いずれも1996年頃~。
その後、1997年5月にサイト「十字架工房」を立ち上げたが、あれこれ変遷して今に至る。
縁がある、と思われる方はぜひメールを。
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発売当時より「FINALFANTASY XI」を継続プレイしている。
※FF11のブログは別に設置→FF的激個人的手記(2006/8/28)
詩篇・短文・長文に放り込んである代物は、主にNiftySearve時代の作品、古いものばかり。
著作権は放棄していないので、引用にはご注意願いたい。
いるのではないでしょうか。
要約すると、大洪水が世界を呑み込む際、
ノアへ授けられた使命は、
洪水に耐えうる箱舟を作り、生を持つすべての種のつがいを、
その箱舟に乗せ、世話をして、天の怒りのおさまるのをやり過ごしなさい、
そのようなモノだった。
ノアは指示された設計図のとおり船を作り、食料と水を積み、
家族を乗せ、生き物を乗せました。
舟を作っているあいだ中、ノアを馬鹿にしていた人々は、
あらゆる生き物のつがいが、
秩序正しく整列をして箱舟に乗り込む様を見て、青ざめました。
「大洪水は本当に起こるのだ」
指示された全てのものが積まれ終えた時、
箱舟の扉は、不思議な力で封印されます。
他のだれかが乗せてくれと懇願しても、
ノアにはそれは叶えられませんでした。
かくして、一同は箱舟にて大洪水を乗り切ります。
どれくらい降ったのでしょうか。
雨が止んだあとでも、水がなかなか引かず、
箱舟の中で外へ出る頃を待ちます。
どれくらい経ったのでしょうか。
未だ、見渡す限りは水。
それでも、だいぶ水が引いただろうか、ノアはそう思い、
最初の鳩を箱舟の外へと遣わしました。
しかし、鳩は、舞い降りる大地を見出せず、
ただ憔悴して戻ってきました。
まだ、水は引きません。
またしばらくして、二番目の鳩を、遣わせました。
すると鳩は、オリーブの葉をくわえて、戻ってきました。
ノアは、遥かな大地の再生を思います。
そして、いよいよ水が引いたのではないかと、
三番目の鳩を、外へ遣わせました。
さぁ。
鳩は、戻ってきません。
待っても待っても、とうとう三番目の鳩は、戻ってきませんでした。
ノアの箱舟の扉は、開かれました。
あらゆる種が、己のあるべき所へと散ってゆきます。
空を見上げると、美しい虹の橋が、架かっていました。
神様が、二度と大洪水は起こさないと約束をしてくれた証です。
ノア達はその虹を見上げて、新しい大地で、
誠実に生を営むことを、誓ったのでした。
さて。
ノアの三番目の鳩は、何処へ行ってしまったのでしょうか。
単に飛び立って、誰よりも早く自由を手に入れたのでしょうか。
私は、この話をとても印象的に記憶しています。
そして、この第三の鳩が何処へ行ったのかということについて、
度々思いを馳せます。
第三の鳩は、言論の自由であったり、
何者にも捕らえられない、自由の象徴であったり、
かつてない大洪水からの復興という、平和の象徴であったりします。
私は、人という器から放たれた、
何者にも犯されることのない自由、言葉ではなかったか、
つまり、箱舟は混沌、人はカオス、箱舟=人、
そこから放たれた鳩とは、言葉=想い=希望に他ならない、
そう解釈しています。
自身からでた言葉は、つまり想いであり、
それは、何よりも増して自由でなくてはならず、
言葉は己を表す最善かつ唯一の手法で、
それが文字か絵か音かその他の何かは、些細な問題であり、
放たれた鳩は、自分自身でもあり、
私は「第三の鳩」でありたいし、
「第三の鳩」を放ち続けたい、そう漠然と願うのです。
私の中に棲む全てが、昇華するまで、
きっと私は何かを書いていると思う。
ぼちぼちと人に聞かれたりしたので、
今日こうして改めて記述してみたり。
「単にここから飛び立つ」というのはサブタイトルで、
ここのサイト名は「第三の鳩」です。
わろたwww
純粋に笑ってしまいました。すばらしい。
納得できたかどうかというと・・・まぁ、実践を伴っていないのを加味して95% 。
http://kotonoha.main.jp/weblog/000255_trackback.html
wiki文法も知らないし、トラックバックも知らないし、画像の貼り付けも知りません。
ブログは謎だらけだ・・・orz=3
いざ、実践σ(´▽`)
助かりかけて、逝き返ることはあるかもしれないが、
死んでしまって、生き返ることは無いと思う。
暫く前、NHKのニュースで、
「長崎県佐世保市の小6女児殺害事件を受け、
県教委が県内の小中学生約3600人を対象に「生と死」について尋ねた意識調査の結果、
15・4%が「死んだ人が生き返る」と回答した」
というのを聞いた。
奇しくも長崎県民である私は、佐世保の女児殺害事件も近い話に聞こえる立場だ。
更にその前にも、何処でだったか中学生が友人を殺害し、
「3回までは生き返ると思った」旨を語った事件もあったように思う。
どういうことなのだろう。
一体全体、誰が教育をすればこのような結果になるのだろうか、甚だ疑問である。
しかし、このニュースを受けた私の率直な意見は、概ね以下のとおりだ。
「バカなやつ、現実と作り物の区別もつかないガキどもが、、、
おまえらの非常識で、ゲーマー(含む趣味の人諸々)の立場が悪くなるんだよ!!
人として恥を知れ、死んだ人間が金輪際生き返ることなんてあるわけないんだよ!」
いわゆるアニメ・漫画オタク、ギャルゲーマニア、ホラースプラッタ映画好き、なんていうのは、
この手の事件が起こると必ず何かと批判される。
前述の意識調査での「理由」については、ゲームで見た・アニメで見た・TVで見た。
やりきれない。
とてもとてもやりきれない。
この理由が、正統であるからだ。
なぜならゲームの世界やアニメの世界やTVや映画では、
当然のようにキャラや主人公は生き返るのだから。
私のゲームのキャラだって、何度死んだか分からないし、その度に生き返っている。
学校や、教育の場で事件が起こると、必ず「学校は何をしていた、どんな教育をしていた」
という話が持ち上がるし、それに対して当然のように学校は親に頭を下げる。
私は、それは違う、と思う。
あくまで「子育て」の一環として親は学校へ通わせているだけなのだ。
子供を導くのは、親でなくてはいけないし、子育ての責任は全て親にあると思うし、
学校は、親が教えられない勉学を享受する場であり、集団生活の常識を認識させる場であり、
「社会」を経験させる場であると思う。
それを、何かにつけ「学校の責任問題」という親共を、私は浅はかだと感じる。
何より親の責任なのに。責任の在り処をすり替えてはいけない。
どんなに「出来そこない」でも、あんたらの子供なのだからあんたらがそう育てたのだから。
#そもそもこの「責任社会」についても私はいろいろと思う事があるが、また、いずれ。
どんなに忙しかろうと共働きだろうと。
子供を成したのなら、責任を果たすべきは両親だ。
太古の昔から変わらぬ真理ではないのか。
この世に正義などないかもしれないが、悪い事と善い事は、存在するのだから。
たとえ三人三様意見があろうとも、「常識」は存在するのだから。
子供が今後、人として生きていく上で必要不可欠な「常識」を伝授するのは、
他ならぬ親以外に、誰がいるというのだ?
本当の親がいないのなら、親の役割の人がやればいい。
小・中学校にもなり、人が「生き返る」などと言わせるなんて、
核家族が進み、葬式を経験しない子供が増えている事を差し引いても、余りある非常識だ。
子供が、娯楽から受ける害悪の大きさを、大人はもっと認識するべきだ。
大人のモノサシで「虚偽」だと分かる物事も、子供にとって、初めて見るものは、
それが全て「ただそこにある事実」なのだということを、忘れてはいけない。
どうか、それらを判別する能力を養ってあげて欲しい。
ゲームやTVのヒーロー・ヒロインが、「人間ではない」ことを教えてあげて欲しい。
それらを行う最良で最強の手段である「会話」で。
どんなに疲れていても、子育てに不可欠な行為を、怠らないで欲しい。
先生も、親も、周りの大人も皆、みんなにお願いしたい。
成長過程で聞いた事・見た事・感じた事を基準に、その人の「常識」は出来上がるのだ。
持って生まれた「性質」は死ぬまで変わることは決して無いと断言するが、
加えて、意識は変えることができるのだから、と断言しておく。
三つ子の魂百まで。
日本には本当にいい言葉がある。
死んだ人は生き返らないのだという回答が、100%になる事を祈ります。