[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨晩の報道には、本当に心が痛んだ。
「長崎県佐世保市で、女児がカッターナイフで首を切りつけ、相手女児は死亡」
どういう、ことだろう。と、思う。
このような、出来事を耳にするたびに、思うことがある。
これは、「近頃」の出来事なのか。
「昔」から、このような酔狂なことが、今と同じくらいの頻度で起こっていたのだろうか?
ということを、度々で考える。
少年保護?ありえない。
一番澄んでいて、何者にも囚われない、そして一番残忍なことが出来る魂は、
子供にこそ宿っているものだ。
『三つ子の魂百まで』と、言うではないか。
人の全ては、そこまでで決まるのだと、私は思う。
11歳、12歳。
もう十分に善悪の分別がつき、性を意識している年にもかかわらず、
刑事に問われないなんて、ありえない。
今後、いわゆるマスコミに暴かれて、家庭の事情や、相互のやりとりが明らかになるだろう。
一体世間は、誰を擁護し、誰を責めるのか、そして、誰の責任にするつもりなのか。
気の毒なことをした?悪いことをした?
その前に、首を切れば人が死ぬということを、加害した女児は知っていたのか?
刃物で切りつけられれば、痛いということを、知っていたのか?
どうして切りつけたのか、ばかりを追求してはならない。
加害した女児が、人を殺傷するという事象を、どう認識しているのかを、
先に問いただすべきではないか。
そこにこそ、現代の教育や家庭環境への警鐘が埋もれているのではないか。
どうしてやったのか、ではなく、
やったらどうなるのかを、知っていたのか。
知っていてやったのであれば、それは罪として罰せられる。
罪と知っていながら、やったのだから。
人が死ぬようなこと=罪という認識が欠落しているのであれば、
完璧に親の責任だ。学校や社会ではない、親の責任だ。
死亡した女児が、加害した女児に対して如何な仕打ちをしたのだとしても、
殺してもいい理由には、決してなりはしないのだから。
言うことを聞かない、思い通りにならない、だから殺してしまう。
こんな風潮、流行って良い理由が無い。
幼い子供の心は、デリケートでありながら、強靭なのだ。
家庭環境しか、幼子の魂を育てるものは存在しない。
まだ、とてもせまい「世界」に生きている年頃だ。
自分の家庭がおかしいのだとは、思わないのだ。
まして、自分が間違っていると、その「世界」が狭いほど、認識しづらいもの。
子供の世界を広げるのは、親に他ならない。
幼い魂は、現実界に留まりにくい。
空想やアニメ・漫画・ゲーム・映画・ドラマと、現実の境界線など、
幼年期には、とてもあやふやなものなのだ。
その線引きをしっかりとしてあげるのが、大人の使命だ。
たとえば3歳の男の子が、ヒーローごっこをすれば、
自分は正義の味方なのだと、すぐに思い込む。
ごっこが終わっても、その気分はすぐには消えない。
「君は正義の味方じゃないんだよ」と、親が現実へ引き戻してあげなければ、
いつまでも、そのままだ。
次に自分がなりたいヒーローでも現れない限り。
問題は、そうやって魂を引っ張る正義のヒーローではななくて、
正義のヒーローの手を振り払い、親元へ置いておけない現実だ。
子供は、親に支配されながら、ある程度成長する。
成長する過程で、子供の世界は広がる。
その広げ方を間違えると、魂は途方も無い方向へ迷走する。
結果、後先考えないがための、結末を迎える。
殺された方の親は、やりきれなさで一杯だろう。
殺した方の親も、やりきれなさで、一杯だろう。
私の第一印象は、「この子の人生は終わったな」だった。
次に、親が新聞社ということで、「報道する側が報道されるのか」という皮肉を感じた。
今後、死亡した女児の父親は報道という仕事を続けていけるのか。
それとも、こんな世の中がホトホトいやになって、隠遁するのか。そんなことも考えた。
小学校での事件なだけに、クチに戸は建たないだろう。
あっというまに実名報道、加害した女児の家族は、この先の一生が地獄だ。
きっと「なんでそんなことをしたんだ、」と責めるのだろう。
浅はかな思考回路が導き出した結末は、殺人。
加害した女児の親には、そんな魂に育ててしまってごめんね、と謝ってもらいたい。
その上で、加害した女児の行く末を、決めるべきではないだろうか。
人はみな平等。
大人も子供も、変わらぬ情報量に惑わされている。
そんな中での、幼い魂の在り処を確保するということが、
どれだけ困難なのかを、近頃の「少年犯罪」の激化は物語っている。
警鐘は既に鳴っているのだ。
人権が、神経が、精神が、と言っていないで、悪は悪として、
きっちり裁いてもらいたい。
それこそが未来の青少年の迷える魂の指標となるのではないだろうか。
浴槽に最近また少し太った足を投げ出して記憶をたどってみては、ため息を付く。
もう少し痩せたら、ううん、これがまた着られるようになるくらい痩せるんだから、と
そう考えて捨てるのを躊躇ったうえで、押入れにしまいこんだ記憶ならあった。
「でも、見つからない」のが現実で、再びため息をつく。
もうやめよう、痩せるのなんて。どうせ誉めてくれる彼氏もいないんだわ、「惨めね」と
と独りごち、見つからないジーンズに失った恋を重ね思い、つまり、また痩せるべきだと考え直すのだった。
きっと、見つかるのだ。「もっとキレイになりたい」という願望は、
彼女のコンプレックスである小デブ(コデブ)にそのままつながり、「痩せたい」になる。
きっと、たとえばソバカスがコンプレックスであったなら、ソバカスをなくしたい、と願うように。
無くしたものに対する未練は、どうしてこうも日に日に大きくなるものなのだろうか。
「よし、」明日から運動!じゃなくて、今日お風呂あがったら運動するぞ、うん。
痩せるのだ、絶対に。
そうすれば、きっとあのジーンズは見つかるに違いない。
そうすれば、きっとまた新しい恋も始まるに違いない。
もはや、ショウコにとってジーンズを本当はどうしたのか、は?
日に焼けた少年たちが大声で叫び合いながら過ぎていった。
私だけが取り残されたような、そにのような気になってしまって、どうにも落ちつかなくなってしまった。
そう、この辺だった。
古い二件長屋の面影はすでになく、マリア様の像の傾きかけた墓地だけが広がっていた。
幼い頃のそれよりも、心なしか、古びて見える。
(何年ぶりだろう)
この地へ来たのは。
なにも理由はなかったが、強いて揚げるとすればそれはたぶん、
たぶん現実逃避ではなかっただろうか。
花開く音の忍び寄る明け方
真四角の天井が見えた
珍しくこんな時間に目を覚まし
出たことも無いベランダへ立った
寒くない 春の朝
水にまみれた空は少し面映く
ついに途絶える夜の気配を見晴るかす
深呼吸 土の中から吐き出され
新たな季節が顔を出した
夕映えの生える南の植物と 公団の群れ
私は今日 去るだろう
夕暮れ時を待たずに
硫黄の匂いに満たされた町を見て
目を閉じる